私はよく「あなたはよく出がらしになりませんね」と面と向かっていわれる。低空飛行の癖にいつまでも失墜しないなという感じなのだろうか。

コツの一つは以前どこかで述べたことがある。自分を固めない事だ。固めてその上に居座ろうとするから固定観念がアイディアの枯渇を招く。常に新しい自分を作り古い自分を壊す事だ。そうすれば頭の新陳代謝を保てる。

しかし、実際には、また別の要素がある。それは、私は長く売れなかったからだ。私が売れ始めたのはもう40代も半ばを過ぎてから。普通の人ならとっくにあきらめて商売換えをしている年齢だ。その年まで、私と言う箱は、蓋が開けられることなくずっと保管されて来たのである。だから私は各種のアイディアを長いこと蓄積して来た。ワインと同じで長時間寝かせるほど熟成されてくるである。

しかし、「才能」と言う箱は、玉手箱と一緒に。開けた瞬間から終わりが始まる。

蓋は開けられると時限爆弾のようにスタートが切れ、いずれば寿命がきてアイディアは出尽くし、「出がらし」となるのである。

若くしい出てきた人ほど、早く燃え尽きる。蓋が開けられるのが早かったからだ。出尽くした後は、下降線。過去の栄光の陰の下ひっそり暮らすのである。

私は、ゆっくり蓋が開けられた。だからアイディアが出尽くす前に私の寿命が来てしまうかもしれない。

(遠藤周作/大様の私/文芸立春社より)

    靈感哪裡來?這是我最常被問到的問題。

    古今中外,文學家、藝術家似乎都被歸類為散漫過一生的類型,說好聽點是浪漫、是隨性,說難聽點是瘋狂。你的腦海中可能立即會飄過一些代表性的例子:比如李白喝酒一斗詩百篇,還不是落魄一生,糊里糊塗抓月而死;梵谷割下自己的耳朵也沒人要,死前幾乎一幅畫也沒賣出去,自己貧病一身,徒然肥了後代收藏家……,這些「天才」,聽起來似乎沒有什麼「生涯智慧」。

    以上赫赫有名的例子似乎告訴我們,在藝術文學上有成就的人,被所謂「繆思女神」鍾愛的人,都是遠離現實的虛妄之徒。人們也總以為,創作者靠的是靈感。有靈感,下筆如泉湧;沒靈感,江郎才盡,坐以待瘋狂。

    而靈感又是什麼呢?它似乎又被形容成和幽靈一樣的東西,來無影,去無蹤,天生天成,像天打雷劈——照中國古人的說法,如果你媽生你之前夢見仙人賜彩筆,你就會理所當然成為文學泰斗。像杜甫那種講究「讀書破萬卷,下筆如有神」的詩人,很容易就被凡人看作「沒什麼了不起」的酸學究,講出這麼苦兮兮的話,就不是天才。

    中國人尊天才若神明,「沒天才」在多年之後的現代還是被當作自暴自棄、打退堂鼓的好借口。我們實在應該來看看外國的「天才」作家是怎麼變成萬人傳頌一時的「天才」的。在浪漫的表皮下,不少大作家可還真是工於心計。從功成名就的文學作家和失敗潦倒的作家身上,我們都可以看出一些有趣的通則。

(吳淡如/靈感不是天打雷劈)

arrow
arrow
    全站熱搜

    pearl 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()